ガレリア・プロバ

ガレリア・プロバ1989年11月発行「La Gazzetta 創刊2号」

HAROLD ALTMAN ハロルド・アルトマン

“都会のオアシス”――例えば、ニューヨークのセントラル・パーク、パリのパーク・モンソーなど――をテーマにリトグラフを制作し続けているハロルド・アルトマン。

ニューヨークのMOMA(現代美術館)をはじめ、世界の有名美術館に永久コレクションとして彼の作品が収められている、という事実を知らない人々でも、アルトマンの描く安らぎの空間に足を踏み入れてみたくなるだろう。

都会の雑踏、職場のめまぐるしさから逃れ、自分との対話、または愛する者たちとの触れ合いの場を持つ人々を、都会にも残された四季折々の自然で包んだ作品の数々は、私たちの心をも休めてくれる。

ガレリア・プロバでは、1987年度よりハロルド・アルトマンの日本での正規総代理店として活動を始めており、今秋アルトマンを日本に迎えて個展を開催した。
10月1日プロバにて催されたレセプション・パーティーでは奥様のレスリー・ビアーズさん(ピアニスト)と共に日本のファンと初の対面をした。

65才という年令が信じられないほど、回りにいる誰よりもエネルギッシュなアルトマン。 ファンの方々との記念撮影やカタログのサインの合間をぬってインタビューに答えていただいた。

シルクスクリーンの新作は小品ながら絶対オススメノものばかり。
まずヤマガタ・ヒロミチのリリースは『美術館』シリーズの3点。
前回の『ギャラリー』シリーズに続き、こちらもヤマガタ・ワールドを存分に楽しめます。
一味違ったものを、とお思いの方はブロンズ作品がおすすめです。


ヤマガタ・ヒロミチ「美術館スイート“虹の美術館”」
ヤマガタ・ヒロミチ「美術館スイート“虹の美術館”」(シルクスクリーン)

ヤマガタ・ヒロミチ「美術館スイート“レンブラント”」
ヤマガタ・ヒロミチ「美術館スイート“レンブラント”」(シルクスクリーン)

ヤマガタ・ヒロミチ「美術館スイート“スーラー”」
ヤマガタ・ヒロミチ「美術館スイート“スーラー”」(シルクスクリーン)

ヤマガタ・ヒロミチ「コンダクター」
ヤマガタ・ヒロミチ「コンダクター」(ブロンズ)

――アルトマン先生をプロバにお迎えできてとてもうれしく思っています。 日本の第一印象はどんなものでしたか?
人、人、人、というのが空港で感じたことですね。
ずいぶんと混み合っているな、と。
――それは大変でしたね。
だけど、食べ物は何でもとても美味しいですね。
テンプラ、サシミ、スシ、ロバタヤキ・・・それにピーチジュースと、例の巨大な葡萄は、特別に気に入りました。
――あ、巨砲のことですね。
それです。それです・・・でも、もちろん気に入ったのは食べ物だけではないですよ。
出会った沢山の人々の一人一人が本当に親切で明るい人ばかりなのでとても嬉しかったですね。
――沢山の人というと、9月29日に行われた銀座松屋でのアルトマン先生の個展のオープニングは大成功だったと聞いていますが。
そうです。サインをしてもしても終わらないほど多くの人々が列をなして待っていてくれました。
手が機械的に動いてしまったので、しまいにはカタログの束がなくなったというのに、テーブルにサインしてしまうというハプニングもありました。(笑)
――今回プロバで、先生の日本初出品の原画をプロバで発表させていただいたわけですが、プロバのギャラリーのことはどう思われましたか?
プロバは素晴らしい画廊ですね。
当然のことですが、仕事柄、アメリカ、ヨーロッパの無数のギャラリーを見ていますけれど、これだけエレガントでスタイリッシュで、そのうえ暖かみのあるギャラリーは見たことがありません。 最高だと思います。
――有り難うございます。
でも、素晴らしいというと先生のアーティストとしての長いキャリアですが、先生がアーティストの道を歩まれたのには何か特別なきっかけがあるのですか?
きっかけというか、12才のとき、初めてアクアティントで小さな版画を創ったんです。
それが子供なりに満足のいく作品で、それからずっと版画を創り続けています。

私の父は芸術家ではなかったんですが、私が小さな頃から絵画というものに触れるチャンスをたくさん作ってくれていたし、絵を描く道具も揃えてくれていたんですね。 そんな環境の中にいて、自分を伸ばせたのだと思います。
ですから今、私も娘にも同じ様な環境作りをしてやっています。
――お嬢さんはおいくつなんですか?
まだ6才ですが、絵の才能は、かなりあるみたいですよ。
私は毎年パリでカシニョールやブラジリエと同じ工房で版画を制作しているのですが、その期間は家族も一緒にパリで生活しています。
アトリエには私の大きな机の隣りに娘の小さな机が並んで置いてあって、彼女も隣りで制作しています。
このあいだ、カンカン娘の良い作品を描いてくれたので、額装してペンシルバニアの私の自宅に飾っておいたら、友人が来て「フランスで新人アーティストを見つけてきたのか」と感心してみていました。
――では、これからが楽しみですね。
はい。父が私に与えてくれた以上の環境を娘に作ってやりたいですね。
私もそういうおかげで早くからアートの世界に専念できましたから。
――先生自身の初期のころの特別な思い出を話していただけませんか?
そうですね。
国吉康雄氏の初期の講義に参加したことや、浜口陽三氏と作品を交換しあったことが、私の30年に及ぶ教授生活(注:先生は、大学教授としてノース・カロライナ大学、ウィスコンシン大学で教鞭をとってこられ、現在はペンシルバニア州立大学の教授である)に、素敵な影響を与えたことだと思いますね。
あと、1958年にパリでジャン・コクトーと二人展をやったことでしょうか。
――先生の才能は早くから世の中に認められていたのですね。
これからは、日本でも先生の作品を幅広く紹介させていただきますので宜しくお願いいたします。
本当にプロバにお向けできてよかったです。有り難うございました。


<<プロバ・カンファレンス・ダイジェスト   丁紹光>>
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このページは1989年11月25日にガレリア・プロバから発行された「La Gazzetta 創刊2号」の内容を掲載したものです。


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